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花倉城

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2022.04.08

こんにちは!「KuroBoo」です。
今回は、桶狭間の戦いで有名な今川義元のお膝元、駿河からお伝えします。

かつては“海道一の弓取り”として全国に名を轟かせ、当時最も天下に近いとさえ目されていた義元公。
そんな彼の戦国大名としての始まりの地の一つに、ここ花倉城があります。

“花倉の乱”でピンとくる方も多いのではないでしょうか。

今川家の三男として誕生し、仏門に下っていた梅岳承芳(のちの義元)は、異母兄・玄広恵探との内乱を、この花倉の地にて制し、一気に歴史の表舞台に立つこととなります。
もしここで義元が武運拙く散っていたら、、、もし花倉城が殊のほか堅牢で攻め切れていなければ、、、

そもそも桶狭間で決戦など起こらず、尾張から始まる天下統一の野望は、日の目を見ることもなかったかもしれません。

さて現在の花倉城ですが、山の斜面に張り巡らされた、みかん農園の小道から入ることができます。
軽自動車でも躊躇するような狭路を登っていくため、行き着くだけでも一苦労ではありますが、そこから一歩踏み込めばすぐに美しい土橋がお出迎えしてくれますよ!

更にその奥の険しい山道を登ると、本城一の目玉、大堀切に分けられた本曲輪、二の曲輪が姿を現します。

二の曲輪からは、花倉の集落を眼下に置きつつ、丘陵を挟んでその彼方に、東海道や駿河湾を収めることができます。
この周囲を丘陵に囲まれた地形こそ、花倉城の守りの要であったわけですが、後にはこの隔絶が原因で衰退し、廃城となったと見られます。

また現在では藪に阻まれていますが、かつては本曲輪から西に下ると、瀬戸谷の集落に出られたようです。
城から落ち延びた恵探は、この瀬戸谷の普門寺で自害して果て、内乱は終結を迎えました。
突然仏門から呼び戻され、最初の試練が兄を殺めること、、、齢18に満たぬ青年は当時何を思ったのでしょうか。

さて最後に、今川家の栄華を築き上げた黒衣の宰相、太原雪斎が眠る、長慶寺を訪ねて締めとさせていただきます。

戦国時代を代表する名軍師、彼がもう少し長生きしていれば、桶狭間の敗北もなかったのではないか、、、たまには、そんな歴史のIFに浸るのもいいかもしれませんね。

それではまた!

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